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常山紹介2 常山城

「角川日本地名大辞典33岡山県」(1989年発行)から、常山城について記載された部分を引用して紹介させていただきます。


つねやまじょう

常山城 <玉野市・灘崎町>
恒山城ともいう。 中世の山城。児島郡灘崎町茂曽昌と玉野市宇藤木と同市用吉にまたがる標高307.2mの独立峰常山に所在。築城時期は不明。天智天皇の頃,対新羅,唐防衛のため,讃岐の城山とともに築かれた朝鮮式山城といわれるが確証はない。 南北朝期に 「太平記」で活躍した勇将, 児島隆徳築城説もある。「備陽国誌」等によると,文明年間に上野土佐守が築城,上野豊前・肥後守の代々が居城, 天正年間に上野肥前守隆徳が居城した。毛利勢が,備中松山城(高梁就市) の三村元親を攻め落とし, 自刃させた余勢をかって, 連合した宇喜多勢と共に当城に攻め寄せ, 小早川勢は西児島に上陸, 通生の湊山城と般若院等を焼亡させ, 天正3年6月4~6日当城を包囲した。城主上野隆徳以下200人余で立籠り防戦したが, 衆寡敵せず6日には, 一族の自決に先立ち, 妻鶴姫が城内の婦女子34人の女軍を率いて, 先鋒の浦野宗勝の軍勢の中に突入奮戦し,数十人を打ち取つて,城中にとって返し,婦女子をはじめ,一族一統が,最後に城主隆徳ともども自刃して果てたという。 城主の腹切り岩は今も現地に残っており, 備中兵乱最後をかざる女軍哀史として知られている。のちの城主は宇喜多直家の臣,戸川肥後守秀安で, その号を幽林といい,  2万5,000石を知行。 その後, 毛利との手切れで, 天正7年毛利勢が児島に侵攻したが,事なきを得た。関ケ原の戦後,小早川秀秋の領地となり,家臣伊岐遠江守真利が在城,池田忠継の時, 慶長8年廃城という。 主な建物は, 同年徳川家康の内命で築かれた下津井城に移転したという。 現在,本丸には石垣や見張台・腹切岩,二の丸には大正初年に整備された城主上野隆徳夫妻を始め女軍の供養塔がある。
 

 


常山紹介 1

「角川日本地名大辞典33岡山県」(1989年発行)から、常山についての記述を引用します。

つねやま 常山<玉野市・灘崎町>
角山(つのやま)・恒山(つねやま)とも称した。玉野市と児島郡灘崎町にまたがる山。標高307.3m。はげ山で知られた花崗岩地形の玉野市には珍しく,古生層の地形であるために浸食されにくく円錐形の美しい景観を呈してい古生層地質であることも一因となって樹木が繁茂して, 児島富士の名で親しまれてきた。江戸期岡山藩主左少将池田継政の歌「タされば汐風までもさえさえて先常山に降るる白雪」も残されている。頂上には常山城跡があり, 天正3年の常山合戦の折, わずか4日で落城した。頂上の本丸跡に城主の腹切岩,二の丸跡に城主の妻鶴姫を記念した女軍の墓が苔むした石垣とともに往時の古戦場をしのばせている。また,江戸期には,池国家の藩有林となり, 山番が用吉に置かれ, 山頂部に矢竹 (箆竹) が群生し郡奉行の支配を受けている。

藩有林として保護された松の大樹林は, 明治末期に伐採されたが,ふもとの家に残る餅搗臼に当時をしのぶことができる。
大正10年旧荘内村宇藤木の有力者大野幸太郎氏が中心となり,常山城跡保勝会がつくられ, 岡山工兵第17大隊の協力により登山道(らせん道)が完成し,迫川駅から山頂まで自動車で登れるようになった。 城跡に百畳敷の大広間と茶室のある常山閣, 城主の一族と34人の女軍の墓がつくられ, すべり台などの遊具も設置された。 その後桜も植えられ, 常山合戦の古戦場としての千人岩,飲料水の底なし井戸, 山麓にある戸川秀安 (幽林) の墓などが大々的に顕彰された。

明治43年の国鉄宇野線の開通後常山を史跡公園として, 瀬戸内海や岡山方面が展望できる観光地とする試みであった。土地所有の面で藩有林の名残か, 大部分が市有・町有林となっており, 入会林として地元民が下草刈りを行つていたが, 近年その慣行もみられなくなり,山はしだいに荒れてきている。昭和18年頂上に無線の中継所が置かれ, マスコミの一翼をになっているが, 花見シーズン以外には訪れる人も少なくなっている。 近年二の丸跡の女軍の墓の前で地元婦人会の有志が,お盆には「かっからか一」の地踊りを奉納し,
古戦場常山を見直す動きがでている。

 


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